相鉄の緑園都市 (1992〜1994)
設計:山本理顕


都市の建物のもつべき公共性を、独特のオープンネスというかたちで体現した駅前の商業ビル群
ディテールの醸し出す雰囲気が、公共性・都市性を反映している



相鉄いずみ野線の緑園都市駅西口を降りたら、 山本理顕の作だと一目で分かるような建物がズラリと並んでいる。 東口も、ちょっと歩けばたちまち理顕によるビルが建ち並ぶ。 XYSTUS(92), ARCUS(93), G.F.ビル(92), OBERISK,PRADO(93), AMNIS(93), コータ・コート などなど、名前だけは調べたけど、どれがどれだか分からない。 まぁそんな事どうでもいいや。  



山本理顕らしさは、建物の裏側や内部の共有空間の作り方に出ている。 外部から彷徨い込んで散策・回遊するような通路空間が、 小広場・階段・屋根などなどの小道具と共に、必ず作られているのだ。 ちょっと「中を通り抜けてみよう」とかいう行為が、気兼ねなくできる感じだ。 そういう一種のオープンネスは機能的にももちろん重要だろう。 しかし山本の建物にあっては、それが建築的意味づけとして、大きなモチーフとなっている。 従って、それは単に平面計画だけでなく意匠上にも表れる。 例えば西口側のある建物などは、屋上の建物要素が空間的に入り組んで見え、 通路空間(外部から入れるかどうかはともかくビルの住人にとっての共有空間) が三次元に展開している。 これは「人がそこを漂い回遊する」というそういう建物(空間・場所)である事の、 意匠による表現なのである。  



単に共有空間をつくりましたョ、というだけでは余りにもありすぎて、 誰も建築「作品」とまでは呼んでくれない。 ディテールや構成、建物全体が、 或る何かのモデルあるいはメタファーになりきった時に、作品性が生まれる。 その意味で理顕のこれらの作品では、全てのディテールがある種の都市性、 それも遊歩者に共有された都市空間というものを表している。 メカニカルで無機的にできているから「現代的・都市的だなぁ」 なんてだけの事ではなく、同時に公共的なものを表している。  



 
   
 



  それは、「表している」というより「なりきっている」と言った方が良い。 これらディテールが作る雰囲気というのは、 建物を作る時に勘案されたであろう構造や平面や計画学を越えている。 それらより前に(もっと根本的なものとして)雰囲気があって、 逆にそれが構造や平面や計画学的配慮を生んでいるように見える。 現象的には順番が逆なのだ。 哲学では「先構成」という問題がある。 ある概念群{A}が別の概念群{B}を構成することで表現可能な場合、 概念群{A}から概念群{B}を導く事はできず、 {B}は{A}を先構成している、より根元的な概念である。 この建物群では、都市的なディテールが醸し出す雰囲気が、 その上で生じるあらゆる計画や平面や機能を「先構成」しているのだ。 ここでは雰囲気と呼んだものの方が本物であり、 紙の上に規則として書かれた「都市計画」はその派生物でしかない。 いや、本当にそうかどうかより、そういう感じがするところがミソなのである。



  ただまぁそうは言っても、西口側のある建物の正面は商業的な看板で覆われて、 猥雑な雰囲気になり下っていた。こうなったら建築作品もクソもない。 単に低俗な商業主義が建物化しただけで、どこにでもあるゴチャゴチャ、チマチマした風景だ。 山本理顕もカタナシである。 それにこういうディテールって商業建築にパクられまくっているから、 現代生活の消費的側面を表象しているだけにも見えてしまう。 まぁこれができた1992年の時点では、もっとすがすがしい建物だったに違いない。





掲載誌:新9210、新9303、新9306、新9401、新9501
所在地:神奈川県横浜市泉区1〜4
行き方:相鉄いずみ野線の緑園都市駅を降りた東西両側に理顕の建物が広がっている
ここでの分類:現代お奨め
訪問年月日:03/02/27
参考:『現代建築の軌跡』新建築1995年12月臨時増刊、新建築社
その他情報:軌509、XYSTUS(92):新9210、ARCUS(93),G.F.ビル(92):新9303、OBERISK:新9306、PRADO(93),AMNIS(93):新9401、コータ・コート:新9501




tate_aji




2003 Copyright. All rights reserved トップ