出雲大社 


伊勢神宮と双璧をなす日本最大級の神社
「底津石根に宮柱布斗斯理(ふとしり)、高天の原に氷木多迦斯理(ひぎたかしり)」たてることが夢だったメガロマニアの神様



最近、出雲大社の柱の跡が発掘されたのを、ご存じの方も多いだろう。 過去の出雲大社は『玉勝間』によれば「上古は三十二丈」つまり高さが約96mあったというのだ。 ンな馬鹿なことはいくら何でもあり得ないとしても、 中古には十六丈、つまり48mはあったのではないかと言われている。 で、想像図を見ると長〜い6本の柱(各一本が太い3本の丸太を順繰りに継ぎ足している)で ヒョロ長く立っていて心もとない。 柱はそんなに地中深く埋められていない掘建柱(ほったてばしら)なのだ。 ある資料によれば、平安時代に出雲大社はつごう六回も倒壊しているという。 その都度、古い言い伝え通りに同じものを作り直したというのだから、もう偏執狂としか言いようがない。 ちなみに、出雲大社の参道は直線で、ずず〜と山のあいだに入ってゆくような形をしている。 この長い直線路は、想像図通りの長い階段を持った本殿を作るには大変に自然である。  



 
   
 



  古事記の大国主命(おおくにぬしのみこと)の国ゆずりのくだりには 「底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原に氷木多迦斯理」と書かれている。 国つ神である大国主命が、天つ神とおなじような立派な家を建ててくれという願いを述べているのだ。 そもそも日本には木造の高い建物がなくて、 そこに巨木を自在に切り倒す鉄器文化を持った北方征服民族が入ってきた。 彼らはでっかい木造の家を作れる。 これが古事記や日本書紀の主人公(大和朝廷)である。 大国主命とはそもそも北方民族が入る前の土着の神様だったと言われている。 それが「大国主命」という形で北方系民族の神話に組み込まれたのだ。 そして先ほどの「底津石根に‥‥」とは、 北方民族の大屋根に接した当時の原住民の驚きと憧れを物語っているように思われる。



  簡単に言ってしまうと、出雲大社の神様(大国主命)とは 「わしにもでっかい家を建ててくれ!」と懇願してこの神社を建ててもらった土着の神様ということになる。 正統の神様が祭ってある伊勢神宮とは、どうも何か雰囲気が違う。 こう言うと、お読みの皆さんは眉にツバを付けるかも知れないが、 伊勢神宮や靖国神社には独特の精神的フィールド(オーラ)が感じられるものである。 かなめとなる大きな神社は、そういう中心的な神々しさを備えていた場所であった。 で、出雲大社は雰囲気(オーラ)が違う。 やはりもともと別の信仰・土着信仰の神様が、 家だけ北方系由来の神社にしてもらっているからではないかと、 私には思えてならない。



  もっと穿った事をいうと、弥生文化の実質的統合者となった大和朝廷は、 各地の縄文的な文化の残る部族を制圧して回ったと思われる。 須佐之男命にしても大国主命にしても土俗の神様が無理やり朝廷の神話と祭儀に組み入れられたもので、 その裏には制圧された怨念が実はこもっている。 須佐之男命が荒ぶるのは当たり前なのである。 大国主命だって朝廷からみて都合良いように物語を捏造されたにすぎない。 それまであった真の「物語」は全て闇に葬り去られた。 そういういびつな形でも尚、何とかして土俗の信仰を続けたい地元の人の熱意が、 96だか48mの社殿を造ったのだと思われる。 この神様がメガロマニアに見える背景には、 征服された部族の精一杯の自己主張があると思われるのである。



  最後にひとつ蛇足を。 境内には菊竹清訓の 出雲大社庁の舎 (63)が佇んでいる。 あの意匠に敬意は表するけれど、はっきりいってあれは人間のためではなくハトの為にある建物だ。 ハトのたまり場になっている。で、人間様はあんまり出入りしてない。





掲載誌: 
所在地:島根県簸川郡大社町大字杵築東
行き方:一畑電鉄「出雲市」駅を下車し北に進む
ここでの分類:歴史建築
訪問年月日:02/10/1
参考:上田篤、土屋敦夫編『町家:共同研究』鹿島出版会、1975
その他情報:http://www.izumooyashiro.or.jp/




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